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むつみボランティアの会 



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◎NO220ふれあいサロン睦 「私の歩み」 [2021年 4月23日]





NO.220ふれあいサロン睦 「私の歩み」  2021.4.17(土)
★2021.4.17(土)のふれあいサロン睦は、会員の活動紹介第5弾として女性会員のSさんが「私の歩み」と題し、用意したメモを読み上げ話してくれました。Sさんは、天草5橋が作られる以前の島国だった天草の栖本町河内に前後の男の子各2人の真ん中に挟まれた女児(第3子)として生まれました。
家族構成は、両親、祖父と8人でした。家は農家で自給自足の食生活で、魚や肉はごちそうでした。弁当のおかずも卵焼き・梅干しが定番で、それに練り物や煮物でした。小学校高学年から中学校の時は牛乳が出るようになったが、給食はない状況でした。

★祖父が、竹馬や竹鉄砲、いろいろな遊び道具を作ってくれ、自転車乗りも教えてもらった記憶があり、父は、子供の勉強をよく見てくれたという。母の話では、父は海軍兵学校で教官をしていたそうで、戦争時の話は一切してくれなかったという。Sさんは、昭和39年の東京オリンピックの時は中学3年生で、学校の長い廊下に座り込み競技をテレビ観戦するのが授業でした。高校生になると、始発のバスで1時間半以上かけて通学し、最終バスで帰宅する毎日でした。一度、大雪でバスが不通になり、歩いて帰宅したが、何時間かかったかは、記憶にないと。

★高校を卒業すると大阪の電機メーカーに就職。週休2日制で大阪万博が行われるという、それだけの理由で就職先を決めたようで、地方から就職した中卒、高卒の4人部屋での寮生活は楽しかった。先輩のお姉さんに連れられて休日は、ディスコ・ボーリング・宝塚・旅行と遊ぶことが新鮮な生活を楽しむ。昭和45年の大阪万博に通い詰め、20歳の終わりのその年の暮れに会社を辞め帰郷。祖父が亡くなり、兄弟が都会に出て一人になってしまった末弟は犬を飼っていが、Sさんは18歳で家を出るまで犬を見たことがなかった。実家に帰ってからは、自動車免許証をとり、地元の企業に勤めながら編み物・洋裁・和裁の習い事に精を出し家では食事作りを担当。洋裁の先生から縁談の話があり、地元育ちで東京勤務の男性と見合いし、結婚しました。ご主人25歳,Sさん23歳でした。

★ご両親は、娘を遠方にやることを大変心配したが、「この人とならやっていけそう!」と根拠のない自信を持ち結婚を決意。埼玉県越谷のアパートでの新婚生活がスタート。ご主人が3交代制の勤務で月に10日の夜勤もありましたが、「ゆっくり本を読めてラッキー!」と前向きに考えました。3月に結婚、春休みに帰省した弟さんと久しぶりに再会したのもつかの間、2週間後に交通事故で亡くなりました。大学2年生になったばかりの春でした。娘は嫁ぎ、息子は亡くすという一度に2度の別れがあり、ご両親は大変なショックだったことを今も覚えているとのこと。父親は、「こんな事になるのだったら、お前の希望通り大学までやってあげれば良かった」「お前が気遣っていたのは、わかっていた」と謝るのでした。Sさんは、十分に育ててもらったので、「わが道に悔いなし」と進んでいる道なので、ちっとも謝ることはないよ」と話したのでした。
★子供ができ多忙な毎日、近所づきあい、オイルショックでトイレットペーパーの買いしめも経験。ご主人の職場に牛久在住の方がいた縁でむつみ自治会発足5年後の昭和54年にむつみに引っ越し、42年が経ちます。むつみ区内のA製作所で働けたので、お昼に家に帰ることができ、子供たちの夏休み・冬休み等、とても助かりました。48歳で転職、60歳で定年を迎え、直ぐにボランティアの会に加入。スポーツクラブで体力増進、病院食づくりの仕事もしました。

★主人59歳のゴールデンウィークに、すでに結婚していた二人の子供たちが家族で遊びに来て、写真を撮ったり食事したりして過ごし、娘が大阪に帰った3日後、Sさんが仕事で家を空けていた時、ご主人が突然亡くなった。何が何だかわからないまま葬儀をしなければと、その事だけを考えたので終わってからの日々は後悔、自責の念、孤独、喪失感にさいなまれた。家の中に居たのでは落ち込む考えしかないので、外に出て人と関わろうとボランティアやスポーツクラブに顔を出し、努めて忙しくした。それでも、夜はちょっとの物音でも怖く、何でもなくても涙が出てたまらなかったと述懐しています。

★今の状況を変えられるものならばと、以前から見聞きしていた「イタコ」(日本の北東北で口寄せを行う巫女のことであり、巫の一種。)を介して死者と話すことができるという「恐山ツアー」に参加。ホテル内でイタコと面談し、念仏の後、死者の言葉を語ってもらった。ツアー仲間数人と部屋に集まりお喋りしお互いの悩みを聞くことができ、自分以上に辛い思いを経験し後悔している人たちを知ることができた。帰途は、明るい笑顔で笑い声が聞こえた。Sさんも何かが変わりすっきりした気持ちになり、家での孤独感が消え、ご主人に見守られているいる感じで、ツアーに行く前と行ってきた後ではこんなにも変わるものかと不思議だった。何故だかは説明が出来ないと。ご主人を亡くして気持ちの整理に8年もかかり、仕事も辞めたとのこと。

★実家はすでに両親が他界し、神奈川で働いていた次男が跡を継ぎ、今は夫婦二人で生活している。兄弟四人も皆元気で、犬を飼っていた末弟も東京で日本食の修行をしたのち、シンガポールで飲食店を開業している由。コロナの影響を心配していたが、何とかやっているから大丈夫だと逆に励まされる始末とか。ボランティアの会に入った理由は孤独感、皆さんのような立派な志があった訳ではないと謙遜している。しかし、ここにいる皆さんに助けられ大勢の人たちと関わることができ、とても嬉しい。77歳の喜寿まで自動車の運転ができることを目標に過ごしたい。

★下の子が高校を卒業した頃、会員を募集していたマジックサークルに加入。2007年秋の発表会を機にいろいろな団体から声がかかり忙しく過ごすことができ、少しは気がまぎれました。そんな時むつみボランティアの会から声がかかり、水無月会でマジックを披露し、ホームページにも紹介してもらいました。マジックサークルも会員の減少や高齢化で解散になりました。ご清聴に感謝いたします。
天草の乱と天草四郎時貞

1637年(寛永11年)、島原・天草の農民たちは、徹底的なキリシタン弾圧や、過酷な年貢の取り立て、そして長く続く飢餓によって、絶望的な状況に追い込まれていました。10月、人々は天草四郎を総大将とし、幕府の厳しい弾圧に対して立ち上がり、日本で初めて人々が「自由と平等」を求めるための戦いが始まりました。

 12月、島原・天草の農民たち(キリシタン軍)は原城(現・長崎県南島原市)に集結し、女性・子供・老人も含む総勢3万7千人が立て籠もりました。総大将の天草四郎は、このキリシタン軍勢に対して、自身の考えを記した「四郎法度書」を出して団結を呼びかけています。落城までの3か月間、幕府軍からの総攻撃を幾度も受けながらも、落伍者はほとんど出ませんでした。しかし、キリシタン軍の食料や武器が尽きた2月27日〜28日、幕府軍(12万5千人余り)による総攻撃が始まりました。3万7千人余りの天草四郎率いるキリシタン軍は、1人(山田右衛門作という南蛮絵師)を除いて皆殺しにされてしまいましたが、最期までキリスト教を信じていました。

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